MOCHA (2)

 

そうして、おじいさんが私を拾ってから二度目の冬の日、わたしは死んだ。煙草の煙を吸いすぎて、体がおかしくなったらしい。わたしの最期の日も、おじいさんは仕事だった。わたしは店の奥の部屋で丸くなっていた。おじいさんが私のために用意したやわらかいクッションの上で、わたしはいつもより小さく丸まって眠っていた。自分の身体からも、くたびれた人生の匂いがする。すうっと意識が遠のいて、思うように息ができなくなって、それだけ。本当に、それだけ。

 

それから何度もそういうことがあった。わたしとおじいさんは、路地裏で出会ったり、公園で出会ったりした。わたしが勝手におじいさんの家に行くこともあった。二年から三年のサイクルで、わたしは同じように生まれ、同じように死んだ。おじいさんは毎回わたしに同じ名前を付けた。おじいさんも知っていたんだと思う。わたしが、この前と同じように死んで、またどこかで同じように出会い、懐くということを。

 

五回目にであったころ、おじいさんは仕事のほとんどを若いアルバイトのお兄さんに任せていた。おじいさんは店の奥の椅子に腰かけて、おじいさんの煙草をふかしている。わたしはいつもの通りその膝に飛び乗って、胸いっぱいにおじいさんの匂いを吸い込む。風船のように肺を膨らませると、おじいさんの乾いたしわしわの手が、毛布よりあったかく、そっとわたしの身体を包むのだ。

「モカ、昔ねえ、おまえにそっくりの猫がいてねえ…」

その話を聞くのは、もう五回目よ。

でも、あなたとわたしの話なら、何回だって聞きたいわ。

「私がコーヒーを挽くのをじっと見つめているんだよ」

そうね。

「仕事が終わると、よくおしゃべりをしてね」

そうね。

昔話もたくさん聞いた。学生時代の北海道旅行の話も、結婚式の話も、娘さんの話も、戦争の話も、ジャマイカのお友達の話も、知ってる。わたし、全部知ってる。

「変わった猫でねえ、キャスターマイルドのお客にはよく懐くんだ」

でも、今はピースが好き。

「何回死んでも、戻ってきてくれるんだよ。ね、モカ。そうだろう。どうしてかねえ、それは、私にもできるのかね…」

そしてその翌年の春、いつもと同じようにさようならをした。

 

七回目に生まれたとき、わたしは自分でおじいさんの喫茶店まで行った。きっとおじいさんはにっこり笑ってわたしの名前を呼ぶだろう。そうしてまた少しの間、わたしと暮らす。暖かい手、しわしわの声、おじいさんの煙草の匂い。

しかし、ついこの間までそこにあったはずのお店は、すっかり廃墟と化していた。けだるげなあの匂いもすっかり消えていた。コンクリートがむき出しになっていて、昔のあの喫茶店の姿なんて、見る影もなかった。

 

                             続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

MOCHA (1)

 

「君、ひとりなの?」

ある雨の日、路地裏のごみ箱に腰かけていた私にそう声をかけてきたのは、白髪のおじいさんだった。茶色のコートを着ていた。手に紙袋を抱えていて、黒い傘をさしていた。暖炉がよく似合いそうな、優しい顔のおじいさん。その人がそこに現れただけで、ふわっと空気があったかくなった気がした。雨が嫌いで欝々としていた気分が、ふっと和らいだ。わたしが黙ってじっとその人を見つめていると、その人はちょっと困ったように笑って言った。

「おいで」

優しい目でそういわれて、わたしは素直についていこうと思った。ぴょんとごみ箱から飛び降りて、おじいさんの後を追う。ずいぶん長く使っていそうな靴。雨の日に似合う、ちょっと重ための足取り。嫌いじゃない。

「ははは、本当についてくるのかい」

ズボンの裾から、くたびれた人生の匂いがした。目を瞑ってもたどっていけそうな匂いだ。ぴしゃぴしゃと水の音とと混じった足音のリズム。嫌いじゃない。

これが、わたしとおじいさんの出会いだった。

 

おじいさんは、「ドリームコーヒー」という小さな喫茶店のオーナーだった。都内の駅から少し離れた裏道にある、手書きの小さな看板がかかっている喫茶店。

「あれえ、こんな猫いたっけ、この店に」

「最近来たんですよ。モカっていう名前です」

「なるほど、確かにモカが背中にこぼれちゃったみたいな色をしてるね」

このお店に来る人のほとんどが喫煙者。わたしがあの日、「くたびれた人生の匂い」といったのは、コーヒーと煙草が混ざった匂いだった。わたしは路上に捨てられた無残な姿の煙草しか知らなかったから、これがこんなにきれいに人の手の中に納まっているのを見ると不思議な気持ちになる。

甘いバニラのキャスターマイルドが一番好き。よく来る若い男の子が吸っている。眠っていても、その子が来るとすぐにわかる。飛び起きて彼のところに行くと、ちょっと嬉しそうな顔で撫でられる。嫌いじゃない。

マールボロのおじさんは、オーナーのおじいさんととても仲良し。サングラスをかけていて、難しそうな英語の本を持っている。マールボロのおじさんがコーヒーを注文しているのを聞いたことがないけど、おじいさんはちゃんとコーヒーを出してあげてる。もう注文効かなくてもわかるみたいに。きっと、この香りはエスプレッソ。

女の人も良く来る。その女の人の指はとても細くて、きらきら光るリングなんかもついていて、煙草を持つときの指のばらけ方が今まで見た中で一番きれい。

 

煙草の煙はため息みたいにけだるげ。仕事のこと、学校のこと、友達のこと、恋人のこと、みんな何か、言葉にできないつらいもやもやを、煙草の煙に変えて吐き出しているみたい。

そんな無言の訴えに包まれながら、穏やかな顔でカップを磨いたり、コーヒーを挽いたりしているおじいさん。目が合うと、甘いカフェラテみたいに笑うから、わたしはあくびを一つ返す。

「モカ」

おじいさんはお仕事が終わると、自分のためのコーヒーを淹れて、カウンターの一番端の席に腰かける。わたしはその膝の上に飛び乗って、目を閉じる。おじいさんも煙草を吸う。でも、わたしはおじいさんの煙草の銘柄は知らない。だけど一つだけわかるのは、このお店に来ている人の誰のものとも同じじゃないということ。おじいさんの煙草は、おじいさんのだけ。

おじいさんは、長い長いため息をつく。誰よりもずっしりと重くて、誰よりも空っぽな、長い長いため息。

 

                                 続く

 

戦場のピアニスト

 

地上波のバラエティ番組の類は、そのCMの多さやくだらなさ、声のうるささやなんとなく漂うヤラセの雰囲気等々が気に入らず、どうしても映画に逃げてしまう性癖があり、今夜もそれは相変わらずで、祖父から借りた映画を見た。

戦場のピアニスト」。

ナチス関連の本や映画を見るたびに思うのが、それは物的証拠や多くの証言が語る通り事実であることは間違いないのに、想像を超えた規模の虐殺、拉致、強制労働は、想像を超えすぎていてもはや想像にもならない。凄惨な歴史を繰り返すまいと頭では理解して口でもそういう人が多いが、彼らの内のどの程度が事実を事実として理解しているのかわたしは信用できない。我々の想像のキャパシティを超えてしまっている。

ポーランドのに住むユダヤ人ピアニスト、シュピルマンナチスの迫害を受ける。ゲットーでの貧しい生活から逃げ、知人のポーランド人の家を転々とし、しかし、終ぞ頼れる伝を失い、廃墟と化した街で髪も髭も伸ばし放題の浮浪者のような風貌になりながら生き延びる。常に戦々恐々としながら、荒らされた民家のキッチンで食べ物を漁る。ピアニストであることはもちろん、人間であることさえ叶わない。全世界が自分の敵であるこの状況が今の私たちにどう想像できようか。

物語終盤、廃墟に残されたピアノを弾くシュピルマンは、風貌こそ浮浪者であるものの、その中に「人間」を取り戻したように見えた。言葉もなく訴えかけるピアノが夜の廃墟に鳴り響く。

終戦まで生き延びたシュピルマンはそのあともピアニストとしての活動を再び続ける。オーケストラの真ん中で鍵盤の上に指を滑らせるシュピルマンを囲う大勢の観客のうち、彼の過去を知っている人はどれほどいたのか、顧りみた人はいたのか、どんな思いで拍手を送ったのか。もしわたしがそこにいたら、どういう思いで、彼の、演奏を…。

ユダヤ人迫害という事実からわたしたちが受け取るべきメッセージは、残虐な出来事があったという事実ではなく、人間であるとはどういうことかという哲学的な問いである。事実を事実と受け止めきれないなら、そういう視点に置き換えて見るしか方法はないのではないかとわたしは考えている。

 

パソコンでキーボードを打つというブログの書き方に憧れて始めたのに、開始2回目で早くもこうしてiphoneからの投稿してしまうという自分の信念の弱さを改めて実感する。

 

これはクリスマスの日の出来事なのだが、昼にインスタントラーメン「ラ王」を調理し食べるという体験をした。インスタントラーメンのような調味料の強い味がしなくて驚いた。麺の食感も「まるで生麺」を触れ込みとしているだけあって、通常のヤワなインスタントラーメンとは違っていた。

成分表示を見てみると、どうやら「メンマパウダー」というのが、ラーメンをラーメンたらしめる錯覚を消費者に引き起こすようである。メンマを食べるときは、それが持つ味というより食感に注目するのだが、ラ王という商品はその味がラーメンらしさを出すエッセンスだと信じているようで、それを見出した研究の熱心さを評価して、ラ王はこれからラ王という独立したジャンルとして見ていきたい。

これがクリスマスの出来事であるということは非常に感慨深いことである。

はじめまして

 

 初めてブログを書きます。たぶん三か月くらいたったら、うげええ黒歴史だ!って思うようになるんだろう。なぜ急にこんなことをしようと思ったのか自分でもよくわからないまま始めてしまったが、何より「ブログ」という響きにひかれたこと、もっともらしい理由を挙げるなら、自分の考えを言葉にしてみようと思い立ったからだ。あとはまあ、ドラマ「シャーロック」のジョン(大好き!)も「ブログ」を書いているし、やってみるか、というなんともテキトーな経緯しかない。

 わたしは、実は会社の社長だとかクリエーターだとか、特殊能力があったりとか、海外に住んでいたりとか、実は人間じゃないとか、そういう特別なことはなく、日本に住んでいる平凡な一人の大学生に過ぎない。ただ、アラビア語を勉強しているとか、サザエさんとかドラえもんとかいった類の日本の国民的アニメを一度もまともに見たことがないという点では、多少特殊かもしれない。自分を犬だと思っていない犬を一匹飼っていて、しょっちゅう喧嘩をするけれど、それでも愛している。そいつは今私にお気に入りの椅子を奪われて釈然としない顔で突っ立ている。わたしはこの犬がそういう顔をするのが好きで、しょっちゅうこうしたことをするのだが、この犬ももう10歳になりそうなので、そろそろいたわってやろうかと思う。死んだらはく製にするか、せめて毛皮を筆箱にするとかそれくらいのことはしたいのだが、技術がなくてできそうにない。

 町を歩いた感想だったり、本の感想だったり、経験してもいないようなたわごとだったり、とりとめもない独り言だったり、そう言ったことを書くつもりでいる。ここはひとつ、最近見た映画の感想を書いてみよう。

 最近何もかもが嫌になって、すべて放り出したく、またそんな自分がふがいなく、自分の生きる価値がよくわからないで過ごしていて、こういう日は二か月に一度くらいの頻度で訪れるのだが、わたしはそのたびに映画に助けを求める癖がある。

今回選んだ映画は「きっと、うまくいく」。いかにも、いい話そうな邦題である。

きっと、うまくいく」はインドの映画だった。エンジニアを育成するためのエリート大学に通う三人の学生が主人公で、エンジニアになれという親や教師たちの押し付けと戦うというストーリー。歌や踊りも充実していて、イギリス譲りかと思われる小気味よいジョークがきゅきゅっと心を和ませる。

 小便を通じて男性器を感電させたり、半身不随の老人をバイクで運んだり、学長の執務室にテスト問題を盗みに行ったり、遺灰をトイレに流すぞ!と脅したり、掃除機で赤子を吸い出したり、花婿衣装にソースを塗り付けてめちゃくちゃにしたり、とにかく、どこまでも素っ頓狂な展開の映画であるのだが…というのはここで私が素っ頓狂な要素しか取り出していないからであるのだが…、そこで語られるテーマは重たく、明るさの中にさっと影が差す感じが何とも言えない。最後のドンでんがえしにぎゃあっと叫んでしまったので、ここが映画館じゃなくてよかったとつくづく思った。(午前四時の出来事)

 インドらしい音階の歌と踊りには元気をもらった。日本製のミュージカル映画というのがなかなかないのはなぜだろうと考えながら、インド特有の動きに見とれた。日本がミュージカル映画を作るなら舞台は江戸の吉原とかだったら面白いし、いや、もういっそ千年前の源氏物語でもいいか…。日本は海外コンテンツを輸入して加工するのは得意なのに、自分が現時点で持っているものを発信しようとしないところが惜しいと思う。日本音階でミュージカルは厳しいか。とことん壮大になるか、とことん悲壮になるかだろう。沖縄とかは向いているかもしれない。

いいか悪いかはさておき、せっかく世界に名だたるサブカルの国なのだから、日本文化もキャッチ―にして発信してしまおうじゃないか。kawaiiだけじゃなく、itokashiとか、ahare(aware、あ、これじゃあただの英単語か…)とか、そういうのがあってもいいと思う。そのDVDの冒頭で別のインド映画の広告があったが、それは輪廻転生ラブコメという、いかにもインドらしい(?)珍妙な(褒め言葉的な意味で)もので、感服、という感じだ。ぜひ見てみたい。