黄と赤

電車に座った瞬間に、どっと重力が倍になった気がした。露子は、一番端の席に座り込むと、すぐに仕切りに寄りかかり、頭のスイッチを切った。幸い、始発の駅なので並んでいれば座って帰れる。
露子は、去年から勤めている出版社で事務の仕事をしている。いわゆる一般的なオフィスレディ。学生時代はそれなりに成績が良く、それなりの進路をすすみ、それなりの大学に入ると、それなりにことをすすめ、それなりの企業に就職した。
露子は、自分のそういうところに、今までは疑問も不安も持っていなかった。人生とはそういうもの、と思っていて、また、どこかで逸脱を怖がっていた。それに、こういうのが、普通で幸せであると思わされてきたせいで、思い切った方向転換などはしなくていいものと思っていたのだ。できるだけ当たり障りなく、過不足なく、なんとなく。そういうふうに、生きてきた。今までは。
しかし最近になって、妙な焦燥感にかられ始めた。就職し、働くようになって、まるで人間がいる機械の部品のように取っ替え引っ替えされる現場を目の当たりにする。また、思い返せば今までの生活もそういうことがいくつもあったかもしれない。いつか自分も、と思う時がある。または、すでに自分も、と思う。思い返すときりがなくなり、いつも途中でやめてしまう。その手のことを考えると、幼い頃に聞いた登っても降りてもたどり着けない階段の話を思い出し、気が遠くなる始末なのだ。わたしは、結局のところどこにもいけないんじゃなかろうか。心に巣くったその黒いしみのような不安から目をそらし、露子は目を閉じた。
電車の揺れに体を預けているうち、うとうととまどろみ始めた。自宅の最寄りまでは、約1時間この電車に揺られることになるため、眠気に対する危機感は薄い。むしろ少しでも眠れた方がラッキーだと思っている。
ゆっくりと、息を吐いた。

どんどん、意識が、沈んで、ゆく。



露子が目を覚ましたときには、その車両には誰も乗っていなかった。自分がいつも降りる駅では、それなりに人が下りていくので、その騒々しさで目覚めるのだが、今日はそれにも気づかないほど深く寝入ってしまったらしい。飛び跳ねる心音とともに意識が冴え、露子はスピードを落としてとあるホームへと滑り込んでいく電車の中でそわそわしながらドアが開くのを待った。
降り立ってみるとそこは、思っていたよりもずっと静かな田舎の駅だった。見回して、駅名の書かれた看板を探す。煌々と灯るライトに映し出された駅名は、全く聞いたこともない駅だった。携帯で駅名を検索し、つぎの電車を探そうと試みるが、ヒットしない。夢中で駅名を検索しているうち、ぷつっと画面がブラックアウトし、電池のマークがついたり消えたりした。ため息がでる。
そういえば、と、動画サイトで動画を見ながら寝入ってしまったことをいまさらになって反省する。駅員に聞くしかないと思い、おとなしく改札へ向かった。
そこは恐ろしくひとけのない駅で、そして必要以上に暗かった。露子は荷物を前に抱えてちらちらと様子を伺いながら進んだ。
改札の横の駅員の詰所の扉を叩く。コンコンと虚しい音が響くだけで、特に応答がない。このような寂しい駅で、しかもとっくに日のくれたこの時間に駅員がいると思っている方がおかしいようだ。電光掲示板を見ても、それらは沈黙したままだし、帰りの電車を待つにしても、空腹過ぎた。
どんな駅にだっておそらく24時間営業の飲食店はあるよね…。そう、意を決して改札を出た。
階段を降りると、おや、と思った。どこからともなくお囃子の音が聞こえる。電車で通り過ぎた時はただ暗く、町の様子がわからなかったのだが、もしかしたらこの町では今、祭りをやっている最中なのかもしれない。とすれば、その音を辿れば屋台の食べ物にもありつけるということか。露子は時々立ち止まりつつ、音だけを頼りに少しずつ歩を進めた。自分でもわからないほど複雑に道を曲がったような気がする。しかし確実に音は近づいている。ここだ、という角を曲がると、突然、闇の底からぬうっと生えて出てきたような人影に行き当たった。
「ひぃゃぁあっ?!」
人影のほうも、露子が突然現れたことに驚いたらしい。影はひゅっと後ろに飛び退った。
「おっと、これはこれは」
人影は、気取った男の声で言った。
「迷子ですか?」
「そうではないけど…」
「では、この辺りにお家が?」
「いや….お祭りに、行きたくて」
「……祭り?」
人影は、首をかしげる仕草を見せた。そしてその人影は一歩前に出て身を乗り出し、露子の顔をよくよく覗き込んだ。間近に直面したその顔に、露子はきゅっと口を結んで息を詰めた。
闇の中で見てもぼやっと光るように白い肌。星を載せたような白いまつ毛が美しい陶磁器のような眼球を縁取っている。細い鼻と薄い唇。そういったものが、たまごのような顔にこの上ない均衡を保って配置されている。時折夜風に巻き上げられる髪は肩ほどまでの長さがあって、月のような白に光っていた。露子が一歩下がると、青年もまた鏡のように身を引いた。
「ここはいつもこうだよ」
青年は明るい声で言う。
「いつも?」
「うん。ほらおいで。連れて行ってあげよう」
そういうと、青年は闇の中で白百合のような手を開いた。それでも露子は渋っている。痺れを切らすのがはやい青年は、鞄を抱きしめている露子の腕を掴み、強引に闇を切って進んだ。
「あんたもここに来たってことはそれなりに理由があるんだろう」
青年は前を向いたまま話している。露子はまだぼんやりとその声を聞いていた。
不安定な夜に取り残された露子を支えるのは、頼りなげなこの手だけ。この手を振りほどいてしまえば、進むことも戻ることもできなくなってしまいそうだ。
お囃子の音が近く。しかし、あたりにはその青年以外の人影は見当たらず、祭りに浮かされた熱気も感じられない。幻想のような提灯の明かりも、どこにも何もない。ただまるでドラマのBGMのように、お囃子の音だけがあたりで鳴っている。
道は、1つの大きな鳥居に繋がっていた。朱が闇に浸されて、普段の鳥居にはない凄みがある。露子が初詣などで見慣れているものよりも、はるかに大きい。青年はその前で立ち止まり、真剣な目で露子を見つめた。
「僕の手にしっかりつかまって。目を閉じて、大きく息を吸って。」
露子は言われた通りに目を閉じ、青年の手を強く握りしめた。
「参、弐、壱で飛び込むよ」
「この鳥居に?」
「そう。じゃあ、いくよ。………参」
ひゅっと露子のほおの横を鋭く掠めるものがあったが、怖くて目が開けられない。青年の呼吸の音が伝わってくる。自分の心拍がありえないほど近く、速く、大きく聞こえた。
「…弐………壱」
駈け出す。
目を閉じているのに、鳥居をくぐったという感覚が肌で感じられた。無数の泡が身体を撫ぜ、足元が途端に不安定になる。脊髄に一直線に何かが駆け巡り、露子はおもわず首をすくめた。
それまで後ろの方で鳴っていたお囃子の音に突然周囲を囲われ、襲いかかってきそうな音圧の中、必死に青年の声を探す。握りしめている手がいくらか汗ばんでいるのがわかる。滑り落ちないように、とぎゅっと握りなおすと思いの外すぐ近くで青年の笑い声が揺れるのが聞こえた。
「もう目を開けていいよ。」
そこは、祭りの熱気に浮かされた一面の朱である。
露子は言葉を飲み込んで、目に沁みる提灯の明かりの中で立ち尽くした。どやどやと移動していく人混み、客を呼び込む声、その上を滑るように通り過ぎる尺八の音。独特の節回しの太鼓の音が人々の心音に聞こえ、それは地の底から鳴り響くようであった。
「ここは…どこ?」
不安と期待で綯い交ぜになった興奮をどうにか抑えて、露子は青年の顔を見上げた。
「ヨミノクニ」
「え?」
「なんでもないよ」
彼の髪に朱色がうつり、それは湖面の灯りのようにうっとりと揺らめいている。
「おねえさん」
人垣の間からそう声をかけられ、露子はそちらを見た。自分の父親の歳ほどの男が愛想のいい笑顔を浮かべながら何かを差し出している。
「可愛いから、お代はいらないよ」
ほら、持って行って、と、再度差し出されたその手にあるのは、盛られすぎて容れ物からはみ出した焼きそばだった。
「ほんとうに!おじさん、ありがとう!」
少女に戻ったように、露子は無邪気に笑んでそれを受け取った。おかしな青年に出会ったことですっかり意識から抜けていたが、胃は渦を巻くくらいにきゅるきゅると空腹を訴えている。露子が、添えられた割り箸を割ろうとしていると。
青年は露子の手からそれらを取り上げた。
「なにするの、ひどい!」
「君はここのものを食べてはいけないんだ。帰れなくなっちゃうからね」
「帰れなく…?」
青年はひどく真剣な顔でうなずいた。その後、ひらめいたように付け加える。
「でも…ひとつだけ食べれる方法があるよ」
「どんな?」
「僕が咀嚼したものを口移しであげるなら、可能だ」
そう言いながら、青年はなんということはない、という顔で焼きそばを頬張った。空腹状態の人の眼の前で嫌味に舌鼓を打ち微笑む姿に、美しい青年の皮を被った悪魔か鬼であろうか。と心中でこっそり悪態を吐く。
どうする?というように、挑戦的に片方の眉が上がったのを睨みつけ、露子は一文字に結んだ口の端でどうにか答えた。
「じゃあ、いらないです」
「冗談だよ」
心底おかしそうに笑う青年に腹が立ち、もう知らない、と踵を返し帰ろうとしたが、帰り方がわからない。青年は突然露子を後ろから抱きすくめると、その細っこい腕からは到底予測できないことに、軽々と露子の身体を持ち上げた。
「なにっ…」
「ちょっと、危ないから。君、さ」
「歩けるよ」
「ふふ。そうじゃなくて」
青年は露子を抱きかかえたまま人混みを抜けていく。露子は恥ずかしくなって、青年の肩に顔を埋めた。女一人を抱きかかえて歩いているというのに、青年の足取りは驚くほど軽かった。彼の首元から何かの花の香りがする。薄い花弁の白い花を思わせる、そっと静かな香。香水ではなく、あくまで自然に、まるで彼が、花それ自体であるかのようである。
「やっぱり、お腹が空いた」
露子が呟くと、青年は耳元で笑った。
「そうだろうね」
青年は器用に露子の顔を覗き込んだ。そして唐突に露子の口をその薄い唇で覆うと、器用に丸い何かを露子の口に押し込んだ。
「なに、これ」
「飴」
さっきまで彼は焼きそばを食べていたのに、どうしてこんなものが口の中にあったのだろう?
露子は不思議に思いながらも、全然違うことを問うた。
「食べても大丈夫なの?」
「だから言ったろう。僕が口移しするなら大丈夫だって」
「あれ、本当だったの?」
「いちいち質問が多い子だ。本当だよ」
いつの間にか人混みを抜けていた。お囃子の音は後方で鳴っていて、代わりに潮騒のように木々の葉がさざめく音が聞こえた。露子が顔を上げると、そこは森だった。
「あっちの村の娘とこっちの村の男が恋をしたとき、よくここで逢瀬を重ねたそうだよ。だから逢い引き森って呼ばれてる」
背の高い木々は、確かに沈黙を守っていた。まるで露子からの視線を避けるように闇の中に姿を隠し、ただでさえ濃い闇をより一層深めているようだ。指で絡め取ることができそうなそれは、誰も彼も二人を垣間見ることを不可能にしていた。
どこからともなく、トトトトト…と、と喉を震わすような声が聞こえてくる。さっきまでのお囃子とは違う、寂しげで影の濃いその音色は、露子の気持ちをざわつかせた。
「なんの声?」
「夜鷹だよ。君の命を狙ってるんだ」
「命を?」
「ああ、そうだよ。ここには君の命を狙うものがいっぱい」
青年は、怖いでしょう?とでもいいたげに小首を傾げてほほ笑んだ。露子はぼんやりと、その美しい面を見つめながら。
「奪ってくれて、いいのに」
つい、そんな言葉をこぼしてしまった。
自分の声が、自分のものではないような気がした。操られたように、言葉が口をついて出てくる。
「死んでしまっていいのに。いなくなってしまっていいのに。わたしなんて、わたしなんて」それからは堰を切ったように言葉が溢れ出した。それはここのところずっと、露子の心の内でとぐろを巻いてこちらを見つめていた、暗い感情の数々だった。
「毎日毎日毎日、同じことばっかりバカみたいって思う。小さい頃は滑車の中のハムスターをみて馬鹿だなあってよく笑っていたけれど、あれはまさしく今のわたしだ。朝起きて、仕事をして、疲れて帰って、きっとこういうのが延々と続いて、それには終わりがないんだ。幼い頃に夢見ていたことも、学生だった頃の理想や夢も、もうなにもわかんないの、見えないの、わたし、どうしていいかわからないの。もう、なにも…だから…」
だから、命など奪ってくれて構わないのに。
くるくるまわって、際限なくまわって、疲れて目を回して倒れてしまうくらいなら、もういっそのことここで断ち切ってほしい。
止めようにも止められない感情が、胸の奥から波のようにうち広がった。あっという間にその渦に足元を掬われ、前が見えなくなり、音もなにも聞こえなくなる。しばらく、露子は自分がなにを言っているのかわからなかった。取り憑いた魔物が、露子の口を借りて、口汚ない言葉で世界を罵る間、かの青年は呼吸の気配さえ潜めて、露子の肩を抱いていた。
やがて言葉が嗚咽に変わると、夜風に似た静かな声で青年が語り出した。
「だからって、夜鷹に命を奪われるこたあない。あんなのに魂奪われたら死体になってもなお無様に食い荒らされる。…ほら、これをお持ちよ」
青年がそう言いながら露子の手に握らせたのは短剣だった。木製の持ち手がぴたりと露子の手になじんだ。独特の重さがあり、少し角度を変えると、その刃は闇の中でも鈍く光った。
「もう一本は、僕が持つ」
青年は露子と向き合うように立つと、自分の持っている短剣の切っ先を露子の顎に当てた。
「これで、お互いの胸を突き刺してしまおう。僕が君を終わらせてあげる。でも、僕だって人殺しとして生きていたくないから、君も僕を殺しておくれよ。」
青年はその剣の切っ先で露子の首を横になぞった。露子の首筋に、一直線に血の玉が浮き上がる。青年の手つきは凪いだ水面のように穏やかだ。露子の首元を見つめて言う。血赤珊瑚の首飾りみたいで綺麗だ、と。
震える夜鷹の声が聞こえる。
「…だから、同時にお互いの胸を突き刺す。1秒だってずれちゃだめだ。ぴったり同じタイミングで、文字通り、相打ち。ね、どうだい」
露子は手の甲で血を拭うと、「それは痛そうだね」とごくありきたりなことを言った。
「…やめる?」
「やめないよ」
露子は青年に気丈な視線を送ると、その手の剣を青年の胸の中央に突き立て、柄頭に両手を置いた。
「壱、弐の、参、でいきましょう」
「ここに来たときとは逆の秒読みだね」
「…だって、帰るのだから」
露子は、大きく息を吸い込んだ。
「壱、弐の」
見つめ合うと、彼の瞳の中に月が咲いている。そういえば、名前も教えてもらえなかったな、と露子はぼんやりと思う。彼に似合う名前を一瞬考えてみる。思い浮かばず、正解を求めようとねえ、と言いかけたが、それを、吐き出す前に、唇を、塞がれた。
「余計なことはしないの。ほら、弐の、の次は」
「………参」
一瞬、忘れたはずの恐怖が胸をよぎり、手の力が抜けかけた。目を閉じると、再び唇を塞がれるのと同時に肩を抱き寄せられる感覚があった。自分の突き立てた短剣は確かに何かを突き刺していく。深く柔らかい何か。あたたかいものが、手を濡らしている。同時に、噛み付くような痛みが、胸をびりびりに破いた。
呼吸も浅く、どこになにがあるのかわからない。胸から滴る液体から香のような芳しい香りが立ち上っている。血ではないのかしら。疑問が頭を掠めたが、目を開ける勇気など露子にはなかった。
世界は、重心は、急速に傾いた。そうしてゆっくりと、ゆっくりと…
どんどん、意識が、沈んで、ゆく。

「終点ですよ、お姉さん」
その声に、飛び起きた。
露子の目の前にいたのは人の良さそうな中年のサラリーマンである。
どうやら、ずいぶん深く寝入っていたようだ。
「あ…ありがとうございます」
ぼんやりしたまま礼を言い、終点と言われた駅に降りた。よく見知った駅とそのホームに、ほっと息をつく。次の電車までまだ間があったので、化粧室に立ち寄った。
あれは夢だったの?
ぐるぐると、露子は考え込んだ。鳥居やお囃子の音、そしてあの謎の青年…。しかし確かに、握った手の感覚や唇の感覚は、ありありと思い出せる。そのあとのふりかかった液体の温度や感触もはっきりと覚えている。何かを握るときに思い出して震えてしまうほど、はっきりと。
手洗い場で、鏡に映った自分と目があった。その首元に、目線を惹きつける赤がある。
そっと触れると、それは丸い赤い玉が連なったネックレスだった。その位置に露子には覚えがあった。あの青年に剣で首元をなぞられた際に血が浮かんだところだ。
「血赤珊瑚…」
まもなく、次の電車の時刻となった。露子は小走りにホームへ続く階段を駆け下りていく。
聴き馴染んだ発車のベルが鳴り出した。