戦場のピアニスト

 

地上波のバラエティ番組の類は、そのCMの多さやくだらなさ、声のうるささやなんとなく漂うヤラセの雰囲気等々が気に入らず、どうしても映画に逃げてしまう性癖があり、今夜もそれは相変わらずで、祖父から借りた映画を見た。

戦場のピアニスト」。

ナチス関連の本や映画を見るたびに思うのが、それは物的証拠や多くの証言が語る通り事実であることは間違いないのに、想像を超えた規模の虐殺、拉致、強制労働は、想像を超えすぎていてもはや想像にもならない。凄惨な歴史を繰り返すまいと頭では理解して口でもそういう人が多いが、彼らの内のどの程度が事実を事実として理解しているのかわたしは信用できない。我々の想像のキャパシティを超えてしまっている。

ポーランドのに住むユダヤ人ピアニスト、シュピルマンナチスの迫害を受ける。ゲットーでの貧しい生活から逃げ、知人のポーランド人の家を転々とし、しかし、終ぞ頼れる伝を失い、廃墟と化した街で髪も髭も伸ばし放題の浮浪者のような風貌になりながら生き延びる。常に戦々恐々としながら、荒らされた民家のキッチンで食べ物を漁る。ピアニストであることはもちろん、人間であることさえ叶わない。全世界が自分の敵であるこの状況が今の私たちにどう想像できようか。

物語終盤、廃墟に残されたピアノを弾くシュピルマンは、風貌こそ浮浪者であるものの、その中に「人間」を取り戻したように見えた。言葉もなく訴えかけるピアノが夜の廃墟に鳴り響く。

終戦まで生き延びたシュピルマンはそのあともピアニストとしての活動を再び続ける。オーケストラの真ん中で鍵盤の上に指を滑らせるシュピルマンを囲う大勢の観客のうち、彼の過去を知っている人はどれほどいたのか、顧りみた人はいたのか、どんな思いで拍手を送ったのか。もしわたしがそこにいたら、どういう思いで、彼の、演奏を…。

ユダヤ人迫害という事実からわたしたちが受け取るべきメッセージは、残虐な出来事があったという事実ではなく、人間であるとはどういうことかという哲学的な問いである。事実を事実と受け止めきれないなら、そういう視点に置き換えて見るしか方法はないのではないかとわたしは考えている。

 

パソコンでキーボードを打つというブログの書き方に憧れて始めたのに、開始2回目で早くもこうしてiphoneからの投稿してしまうという自分の信念の弱さを改めて実感する。

 

これはクリスマスの日の出来事なのだが、昼にインスタントラーメン「ラ王」を調理し食べるという体験をした。インスタントラーメンのような調味料の強い味がしなくて驚いた。麺の食感も「まるで生麺」を触れ込みとしているだけあって、通常のヤワなインスタントラーメンとは違っていた。

成分表示を見てみると、どうやら「メンマパウダー」というのが、ラーメンをラーメンたらしめる錯覚を消費者に引き起こすようである。メンマを食べるときは、それが持つ味というより食感に注目するのだが、ラ王という商品はその味がラーメンらしさを出すエッセンスだと信じているようで、それを見出した研究の熱心さを評価して、ラ王はこれからラ王という独立したジャンルとして見ていきたい。

これがクリスマスの出来事であるということは非常に感慨深いことである。