MOCHA (1)

 

「君、ひとりなの?」

ある雨の日、路地裏のごみ箱に腰かけていた私にそう声をかけてきたのは、白髪のおじいさんだった。茶色のコートを着ていた。手に紙袋を抱えていて、黒い傘をさしていた。暖炉がよく似合いそうな、優しい顔のおじいさん。その人がそこに現れただけで、ふわっと空気があったかくなった気がした。雨が嫌いで欝々としていた気分が、ふっと和らいだ。わたしが黙ってじっとその人を見つめていると、その人はちょっと困ったように笑って言った。

「おいで」

優しい目でそういわれて、わたしは素直についていこうと思った。ぴょんとごみ箱から飛び降りて、おじいさんの後を追う。ずいぶん長く使っていそうな靴。雨の日に似合う、ちょっと重ための足取り。嫌いじゃない。

「ははは、本当についてくるのかい」

ズボンの裾から、くたびれた人生の匂いがした。目を瞑ってもたどっていけそうな匂いだ。ぴしゃぴしゃと水の音とと混じった足音のリズム。嫌いじゃない。

これが、わたしとおじいさんの出会いだった。

 

おじいさんは、「ドリームコーヒー」という小さな喫茶店のオーナーだった。都内の駅から少し離れた裏道にある、手書きの小さな看板がかかっている喫茶店。

「あれえ、こんな猫いたっけ、この店に」

「最近来たんですよ。モカっていう名前です」

「なるほど、確かにモカが背中にこぼれちゃったみたいな色をしてるね」

このお店に来る人のほとんどが喫煙者。わたしがあの日、「くたびれた人生の匂い」といったのは、コーヒーと煙草が混ざった匂いだった。わたしは路上に捨てられた無残な姿の煙草しか知らなかったから、これがこんなにきれいに人の手の中に納まっているのを見ると不思議な気持ちになる。

甘いバニラのキャスターマイルドが一番好き。よく来る若い男の子が吸っている。眠っていても、その子が来るとすぐにわかる。飛び起きて彼のところに行くと、ちょっと嬉しそうな顔で撫でられる。嫌いじゃない。

マールボロのおじさんは、オーナーのおじいさんととても仲良し。サングラスをかけていて、難しそうな英語の本を持っている。マールボロのおじさんがコーヒーを注文しているのを聞いたことがないけど、おじいさんはちゃんとコーヒーを出してあげてる。もう注文効かなくてもわかるみたいに。きっと、この香りはエスプレッソ。

女の人も良く来る。その女の人の指はとても細くて、きらきら光るリングなんかもついていて、煙草を持つときの指のばらけ方が今まで見た中で一番きれい。

 

煙草の煙はため息みたいにけだるげ。仕事のこと、学校のこと、友達のこと、恋人のこと、みんな何か、言葉にできないつらいもやもやを、煙草の煙に変えて吐き出しているみたい。

そんな無言の訴えに包まれながら、穏やかな顔でカップを磨いたり、コーヒーを挽いたりしているおじいさん。目が合うと、甘いカフェラテみたいに笑うから、わたしはあくびを一つ返す。

「モカ」

おじいさんはお仕事が終わると、自分のためのコーヒーを淹れて、カウンターの一番端の席に腰かける。わたしはその膝の上に飛び乗って、目を閉じる。おじいさんも煙草を吸う。でも、わたしはおじいさんの煙草の銘柄は知らない。だけど一つだけわかるのは、このお店に来ている人の誰のものとも同じじゃないということ。おじいさんの煙草は、おじいさんのだけ。

おじいさんは、長い長いため息をつく。誰よりもずっしりと重くて、誰よりも空っぽな、長い長いため息。

 

                                 続く