MOCHA(3)

うしろから、混乱して立ち尽くすわたしを呼ぶ声がした。

「モカ…。モカだよね?」

おじいさんより若い声。振り向くと、そこにはアルバイトの男の子がびっくりした顔で突っ立っていた。

「まさかほんとに…戻ってくるなんて」

戻ってくるに決まっているでしょう。帰巣本能って、知ってる?

そんなことより、おじいさんはどこに行ったの。ここでないとすれば、どこにいるの?

「頼まれていたんだ。マスターに。モカを見かけたら、拾って育ててほしいって…」

男の子のひょいと抱き上げられたわたしは、そのまま彼の胸の中にすっぽりと納まった。家のにおいがする。どこか遠くの、暖かい巣の匂い守られていて、穏やかで、ついうとうとっとしてしまうような、巣の匂い。そんな、夢の匂いがする。

「マスターの店、継ぐことになってね。店は東口に移転することにしたんだ。モカもおいでよ。全席禁煙にしたから、もうあんなひどい死に方をすることもないよ…」

確かに、彼の服からはかすかにコーヒーの匂いがした。

…ひどい死に方ってなに?

わたし、幸せだったわよ。生きているうちの一番美しい姿だけ愛でてもらえて。

それにわたし、煙草の匂いが混ざっていないと、喫茶店という感じがしないの。

 

わたしは彼の腕の中で、夢中で体をよじって、こぼれるようにそこから逃げ出した。

彼は地面に降りた私を見下ろして笑った。駄々っ子に呆れたような目だった。

「しょうがないなあ、こっちだよ!」

男の子は速足で歩いていく。わたしは彼にぴったりくっついて歩いた。

 

連れていかれた先は、大きな病院だった。彼はだまって私を抱き上げると、トレーナーの中にわたしを詰め込んだ。耳が折れて、ひどい格好に尻尾が折れ曲がって、本当に不快で思わずうなるほどだった。けど、仕方ないことは猫のわたしにもよくわかったから、毛も逆立てず、出さず、耐えに耐えて、耐え抜いた。

彼が急いでくれているのは、彼の歩くリズムで分かった。

「マスター」

彼が立ち止まって、そう言ったのが聞こえた。

「連れてきました。どうしても、来たいと言ってるので」

答える声はなかった。

トレーナーから出されたわたしは、ぱちぱちっと瞬きして、あたりを見回した。つんと鼻に来る薬品の匂いと、ゆっくりと一定のリズムを刻む電子音が聞こえた。シーツもカーテンも真っ白で…その真っ白の中に、おじいさんがいた。目を閉じて、横たわっていた。口がマスクで覆われていて、苦しそう。これじゃあ、コーヒーも飲めないし、煙草だって吸えない。わたしとおじいさんの、一番幸せだった時間はすっかり消え去って、そしてもう戻ってこないのだ。

 

わたしは体を伸ばして、おじいさんの膝のあたりに降りた。

アルバイトの男の子は、何も言わず、それをみていた。本当は猫がここに来てはいけないことくらいわかっているはずなのに。

おじいさん、わたし、あなたのことなにもしらない、名前だって知らないけど、とても好きだった。大好きだった。

わたしもすぐに死ぬね。うん、だって何度も死んでいるんだもの、今回だけ長く生きてあなたを待たせるようなことはきっとしない。

 

わたしはいつもしていたようにおじいさんの膝の上に丸くなって目を閉じた。

「モカ…」

かすれた声で名前が呼ばれた気がした。

夢だったのかもしれない。

わたしは顔を上げておじいさんの顔をじっと見つめた。そうしたら、おじいさんはしわがいっぱいたたまれた顔をほころばせて、わたしを見つめ返していた。

「モカだ…」

ずしん、と背中に重みがあった。

おじいさんの手。かつては毛布よりもあたたかかったその手は、今日は冷たかった。鉛のような、灰色のような重さと冷たさだ。

でも、ぱちりと見つめ合った視線の、なんとあったかいことだろう。

 

「くたびれた人生の匂いがするね」

 

湿った風がカーテンをゆらすと、それまで控えめになっていたバラード調の電子音が、オルゴールが演奏をやめるときのようにそっと鳴りやんだ。

   

                           おわり