ゆく年くる年

昨年は、「初めてのことをたくさんする」という目標のもと、様々なことに手を出してきました。18切符によるひとり旅(京都編/中国地方周遊編)、御朱印集めを始めたり、美術館でのアルバイトを始めたり、ちらっとボイストレーニングに行ってみたり、モスクを見学したり。あとはアップルパイを生地から練成したり、美少年映画や漫画にどんどん手を出す中で長野まゆみさんという素敵な作家に出会えたり、うっかり雅楽を始めてしまったり。始めて中華料理を食べたり、ペルシャ料理を食べたり。そしてなんといっても、彼氏ができたり。これに関してはデートなり誕生日なり花火大会なりクリスマスなり、それはもう初めてのことがたくさんありました。おかげさまで2016年のスケジュール帳はどこもかしこもびっしりで、誇らしいです。

その反面、わたしは様々なもの、人々に謝りながらこの一年を過ごしました。いろんなことに手を出しすぎて時間が足りなくて、行事などに参加できなかったり、急に予定を変更してしまったり、ほんとうに、申し訳ないと感じる場面が多方面でありました。わたし自身は10代最後のわがままと思って、子どもでいられる最後の年だから、と、ごめんなさいと謝りつつも、どこかで自分を正当化していました。そこに関しては、深く反省しているし、改めようと思っています。

また、旅先で出会う方々、また大学やそれ以外の活動で出会う方々の、若さに対する羨望をとても強く感じた年でもありました。自分がそろそろそれを手放すときがくるから、なおさら強く感じました。若いこと以外に、何か持っていなければわたしは何にでもない人間になってしまうのではないかと怖くなったことさえあります。今でもそれはときどきちらと心に翻って、わたしを不安にさせますが。

今やらなきゃいけないと、どこか急いでいるところがありました。やっぱり、10代最後の年だというのがだいぶプレッシャーだったようです。着たい服、欲しいもの、今しか似合わないもの、できないこと、行けない場所。そういうことを、少しでも多く体験しておきたかったのでした。

ずいぶんと多くの種を蒔いた年でした。でも、どれもまだ芽を出してはいません。それらを育てるのも枯らしてしまうのも、これから送る年次第。というわけかで、わたしは今年の目標を「きわめる年」というように設定します。

今までに体験したこと、手に入れたものを磨き、深め、追求する。そのための材料はもう、昨年揃えたと思うから。あとはどう調理しようかといったところ。だから昨年よりずっと丁寧に自分を反省して、面倒がらずに、ちゃんと育てていきたいなと思います。

 

 

黄と赤

電車に座った瞬間に、どっと重力が倍になった気がした。露子は、一番端の席に座り込むと、すぐに仕切りに寄りかかり、頭のスイッチを切った。幸い、始発の駅なので並んでいれば座って帰れる。
露子は、去年から勤めている出版社で事務の仕事をしている。いわゆる一般的なオフィスレディ。学生時代はそれなりに成績が良く、それなりの進路をすすみ、それなりの大学に入ると、それなりにことをすすめ、それなりの企業に就職した。
露子は、自分のそういうところに、今までは疑問も不安も持っていなかった。人生とはそういうもの、と思っていて、また、どこかで逸脱を怖がっていた。それに、こういうのが、普通で幸せであると思わされてきたせいで、思い切った方向転換などはしなくていいものと思っていたのだ。できるだけ当たり障りなく、過不足なく、なんとなく。そういうふうに、生きてきた。今までは。
しかし最近になって、妙な焦燥感にかられ始めた。就職し、働くようになって、まるで人間がいる機械の部品のように取っ替え引っ替えされる現場を目の当たりにする。また、思い返せば今までの生活もそういうことがいくつもあったかもしれない。いつか自分も、と思う時がある。または、すでに自分も、と思う。思い返すときりがなくなり、いつも途中でやめてしまう。その手のことを考えると、幼い頃に聞いた登っても降りてもたどり着けない階段の話を思い出し、気が遠くなる始末なのだ。わたしは、結局のところどこにもいけないんじゃなかろうか。心に巣くったその黒いしみのような不安から目をそらし、露子は目を閉じた。
電車の揺れに体を預けているうち、うとうととまどろみ始めた。自宅の最寄りまでは、約1時間この電車に揺られることになるため、眠気に対する危機感は薄い。むしろ少しでも眠れた方がラッキーだと思っている。
ゆっくりと、息を吐いた。

どんどん、意識が、沈んで、ゆく。



露子が目を覚ましたときには、その車両には誰も乗っていなかった。自分がいつも降りる駅では、それなりに人が下りていくので、その騒々しさで目覚めるのだが、今日はそれにも気づかないほど深く寝入ってしまったらしい。飛び跳ねる心音とともに意識が冴え、露子はスピードを落としてとあるホームへと滑り込んでいく電車の中でそわそわしながらドアが開くのを待った。
降り立ってみるとそこは、思っていたよりもずっと静かな田舎の駅だった。見回して、駅名の書かれた看板を探す。煌々と灯るライトに映し出された駅名は、全く聞いたこともない駅だった。携帯で駅名を検索し、つぎの電車を探そうと試みるが、ヒットしない。夢中で駅名を検索しているうち、ぷつっと画面がブラックアウトし、電池のマークがついたり消えたりした。ため息がでる。
そういえば、と、動画サイトで動画を見ながら寝入ってしまったことをいまさらになって反省する。駅員に聞くしかないと思い、おとなしく改札へ向かった。
そこは恐ろしくひとけのない駅で、そして必要以上に暗かった。露子は荷物を前に抱えてちらちらと様子を伺いながら進んだ。
改札の横の駅員の詰所の扉を叩く。コンコンと虚しい音が響くだけで、特に応答がない。このような寂しい駅で、しかもとっくに日のくれたこの時間に駅員がいると思っている方がおかしいようだ。電光掲示板を見ても、それらは沈黙したままだし、帰りの電車を待つにしても、空腹過ぎた。
どんな駅にだっておそらく24時間営業の飲食店はあるよね…。そう、意を決して改札を出た。
階段を降りると、おや、と思った。どこからともなくお囃子の音が聞こえる。電車で通り過ぎた時はただ暗く、町の様子がわからなかったのだが、もしかしたらこの町では今、祭りをやっている最中なのかもしれない。とすれば、その音を辿れば屋台の食べ物にもありつけるということか。露子は時々立ち止まりつつ、音だけを頼りに少しずつ歩を進めた。自分でもわからないほど複雑に道を曲がったような気がする。しかし確実に音は近づいている。ここだ、という角を曲がると、突然、闇の底からぬうっと生えて出てきたような人影に行き当たった。
「ひぃゃぁあっ?!」
人影のほうも、露子が突然現れたことに驚いたらしい。影はひゅっと後ろに飛び退った。
「おっと、これはこれは」
人影は、気取った男の声で言った。
「迷子ですか?」
「そうではないけど…」
「では、この辺りにお家が?」
「いや….お祭りに、行きたくて」
「……祭り?」
人影は、首をかしげる仕草を見せた。そしてその人影は一歩前に出て身を乗り出し、露子の顔をよくよく覗き込んだ。間近に直面したその顔に、露子はきゅっと口を結んで息を詰めた。
闇の中で見てもぼやっと光るように白い肌。星を載せたような白いまつ毛が美しい陶磁器のような眼球を縁取っている。細い鼻と薄い唇。そういったものが、たまごのような顔にこの上ない均衡を保って配置されている。時折夜風に巻き上げられる髪は肩ほどまでの長さがあって、月のような白に光っていた。露子が一歩下がると、青年もまた鏡のように身を引いた。
「ここはいつもこうだよ」
青年は明るい声で言う。
「いつも?」
「うん。ほらおいで。連れて行ってあげよう」
そういうと、青年は闇の中で白百合のような手を開いた。それでも露子は渋っている。痺れを切らすのがはやい青年は、鞄を抱きしめている露子の腕を掴み、強引に闇を切って進んだ。
「あんたもここに来たってことはそれなりに理由があるんだろう」
青年は前を向いたまま話している。露子はまだぼんやりとその声を聞いていた。
不安定な夜に取り残された露子を支えるのは、頼りなげなこの手だけ。この手を振りほどいてしまえば、進むことも戻ることもできなくなってしまいそうだ。
お囃子の音が近く。しかし、あたりにはその青年以外の人影は見当たらず、祭りに浮かされた熱気も感じられない。幻想のような提灯の明かりも、どこにも何もない。ただまるでドラマのBGMのように、お囃子の音だけがあたりで鳴っている。
道は、1つの大きな鳥居に繋がっていた。朱が闇に浸されて、普段の鳥居にはない凄みがある。露子が初詣などで見慣れているものよりも、はるかに大きい。青年はその前で立ち止まり、真剣な目で露子を見つめた。
「僕の手にしっかりつかまって。目を閉じて、大きく息を吸って。」
露子は言われた通りに目を閉じ、青年の手を強く握りしめた。
「参、弐、壱で飛び込むよ」
「この鳥居に?」
「そう。じゃあ、いくよ。………参」
ひゅっと露子のほおの横を鋭く掠めるものがあったが、怖くて目が開けられない。青年の呼吸の音が伝わってくる。自分の心拍がありえないほど近く、速く、大きく聞こえた。
「…弐………壱」
駈け出す。
目を閉じているのに、鳥居をくぐったという感覚が肌で感じられた。無数の泡が身体を撫ぜ、足元が途端に不安定になる。脊髄に一直線に何かが駆け巡り、露子はおもわず首をすくめた。
それまで後ろの方で鳴っていたお囃子の音に突然周囲を囲われ、襲いかかってきそうな音圧の中、必死に青年の声を探す。握りしめている手がいくらか汗ばんでいるのがわかる。滑り落ちないように、とぎゅっと握りなおすと思いの外すぐ近くで青年の笑い声が揺れるのが聞こえた。
「もう目を開けていいよ。」
そこは、祭りの熱気に浮かされた一面の朱である。
露子は言葉を飲み込んで、目に沁みる提灯の明かりの中で立ち尽くした。どやどやと移動していく人混み、客を呼び込む声、その上を滑るように通り過ぎる尺八の音。独特の節回しの太鼓の音が人々の心音に聞こえ、それは地の底から鳴り響くようであった。
「ここは…どこ?」
不安と期待で綯い交ぜになった興奮をどうにか抑えて、露子は青年の顔を見上げた。
「ヨミノクニ」
「え?」
「なんでもないよ」
彼の髪に朱色がうつり、それは湖面の灯りのようにうっとりと揺らめいている。
「おねえさん」
人垣の間からそう声をかけられ、露子はそちらを見た。自分の父親の歳ほどの男が愛想のいい笑顔を浮かべながら何かを差し出している。
「可愛いから、お代はいらないよ」
ほら、持って行って、と、再度差し出されたその手にあるのは、盛られすぎて容れ物からはみ出した焼きそばだった。
「ほんとうに!おじさん、ありがとう!」
少女に戻ったように、露子は無邪気に笑んでそれを受け取った。おかしな青年に出会ったことですっかり意識から抜けていたが、胃は渦を巻くくらいにきゅるきゅると空腹を訴えている。露子が、添えられた割り箸を割ろうとしていると。
青年は露子の手からそれらを取り上げた。
「なにするの、ひどい!」
「君はここのものを食べてはいけないんだ。帰れなくなっちゃうからね」
「帰れなく…?」
青年はひどく真剣な顔でうなずいた。その後、ひらめいたように付け加える。
「でも…ひとつだけ食べれる方法があるよ」
「どんな?」
「僕が咀嚼したものを口移しであげるなら、可能だ」
そう言いながら、青年はなんということはない、という顔で焼きそばを頬張った。空腹状態の人の眼の前で嫌味に舌鼓を打ち微笑む姿に、美しい青年の皮を被った悪魔か鬼であろうか。と心中でこっそり悪態を吐く。
どうする?というように、挑戦的に片方の眉が上がったのを睨みつけ、露子は一文字に結んだ口の端でどうにか答えた。
「じゃあ、いらないです」
「冗談だよ」
心底おかしそうに笑う青年に腹が立ち、もう知らない、と踵を返し帰ろうとしたが、帰り方がわからない。青年は突然露子を後ろから抱きすくめると、その細っこい腕からは到底予測できないことに、軽々と露子の身体を持ち上げた。
「なにっ…」
「ちょっと、危ないから。君、さ」
「歩けるよ」
「ふふ。そうじゃなくて」
青年は露子を抱きかかえたまま人混みを抜けていく。露子は恥ずかしくなって、青年の肩に顔を埋めた。女一人を抱きかかえて歩いているというのに、青年の足取りは驚くほど軽かった。彼の首元から何かの花の香りがする。薄い花弁の白い花を思わせる、そっと静かな香。香水ではなく、あくまで自然に、まるで彼が、花それ自体であるかのようである。
「やっぱり、お腹が空いた」
露子が呟くと、青年は耳元で笑った。
「そうだろうね」
青年は器用に露子の顔を覗き込んだ。そして唐突に露子の口をその薄い唇で覆うと、器用に丸い何かを露子の口に押し込んだ。
「なに、これ」
「飴」
さっきまで彼は焼きそばを食べていたのに、どうしてこんなものが口の中にあったのだろう?
露子は不思議に思いながらも、全然違うことを問うた。
「食べても大丈夫なの?」
「だから言ったろう。僕が口移しするなら大丈夫だって」
「あれ、本当だったの?」
「いちいち質問が多い子だ。本当だよ」
いつの間にか人混みを抜けていた。お囃子の音は後方で鳴っていて、代わりに潮騒のように木々の葉がさざめく音が聞こえた。露子が顔を上げると、そこは森だった。
「あっちの村の娘とこっちの村の男が恋をしたとき、よくここで逢瀬を重ねたそうだよ。だから逢い引き森って呼ばれてる」
背の高い木々は、確かに沈黙を守っていた。まるで露子からの視線を避けるように闇の中に姿を隠し、ただでさえ濃い闇をより一層深めているようだ。指で絡め取ることができそうなそれは、誰も彼も二人を垣間見ることを不可能にしていた。
どこからともなく、トトトトト…と、と喉を震わすような声が聞こえてくる。さっきまでのお囃子とは違う、寂しげで影の濃いその音色は、露子の気持ちをざわつかせた。
「なんの声?」
「夜鷹だよ。君の命を狙ってるんだ」
「命を?」
「ああ、そうだよ。ここには君の命を狙うものがいっぱい」
青年は、怖いでしょう?とでもいいたげに小首を傾げてほほ笑んだ。露子はぼんやりと、その美しい面を見つめながら。
「奪ってくれて、いいのに」
つい、そんな言葉をこぼしてしまった。
自分の声が、自分のものではないような気がした。操られたように、言葉が口をついて出てくる。
「死んでしまっていいのに。いなくなってしまっていいのに。わたしなんて、わたしなんて」それからは堰を切ったように言葉が溢れ出した。それはここのところずっと、露子の心の内でとぐろを巻いてこちらを見つめていた、暗い感情の数々だった。
「毎日毎日毎日、同じことばっかりバカみたいって思う。小さい頃は滑車の中のハムスターをみて馬鹿だなあってよく笑っていたけれど、あれはまさしく今のわたしだ。朝起きて、仕事をして、疲れて帰って、きっとこういうのが延々と続いて、それには終わりがないんだ。幼い頃に夢見ていたことも、学生だった頃の理想や夢も、もうなにもわかんないの、見えないの、わたし、どうしていいかわからないの。もう、なにも…だから…」
だから、命など奪ってくれて構わないのに。
くるくるまわって、際限なくまわって、疲れて目を回して倒れてしまうくらいなら、もういっそのことここで断ち切ってほしい。
止めようにも止められない感情が、胸の奥から波のようにうち広がった。あっという間にその渦に足元を掬われ、前が見えなくなり、音もなにも聞こえなくなる。しばらく、露子は自分がなにを言っているのかわからなかった。取り憑いた魔物が、露子の口を借りて、口汚ない言葉で世界を罵る間、かの青年は呼吸の気配さえ潜めて、露子の肩を抱いていた。
やがて言葉が嗚咽に変わると、夜風に似た静かな声で青年が語り出した。
「だからって、夜鷹に命を奪われるこたあない。あんなのに魂奪われたら死体になってもなお無様に食い荒らされる。…ほら、これをお持ちよ」
青年がそう言いながら露子の手に握らせたのは短剣だった。木製の持ち手がぴたりと露子の手になじんだ。独特の重さがあり、少し角度を変えると、その刃は闇の中でも鈍く光った。
「もう一本は、僕が持つ」
青年は露子と向き合うように立つと、自分の持っている短剣の切っ先を露子の顎に当てた。
「これで、お互いの胸を突き刺してしまおう。僕が君を終わらせてあげる。でも、僕だって人殺しとして生きていたくないから、君も僕を殺しておくれよ。」
青年はその剣の切っ先で露子の首を横になぞった。露子の首筋に、一直線に血の玉が浮き上がる。青年の手つきは凪いだ水面のように穏やかだ。露子の首元を見つめて言う。血赤珊瑚の首飾りみたいで綺麗だ、と。
震える夜鷹の声が聞こえる。
「…だから、同時にお互いの胸を突き刺す。1秒だってずれちゃだめだ。ぴったり同じタイミングで、文字通り、相打ち。ね、どうだい」
露子は手の甲で血を拭うと、「それは痛そうだね」とごくありきたりなことを言った。
「…やめる?」
「やめないよ」
露子は青年に気丈な視線を送ると、その手の剣を青年の胸の中央に突き立て、柄頭に両手を置いた。
「壱、弐の、参、でいきましょう」
「ここに来たときとは逆の秒読みだね」
「…だって、帰るのだから」
露子は、大きく息を吸い込んだ。
「壱、弐の」
見つめ合うと、彼の瞳の中に月が咲いている。そういえば、名前も教えてもらえなかったな、と露子はぼんやりと思う。彼に似合う名前を一瞬考えてみる。思い浮かばず、正解を求めようとねえ、と言いかけたが、それを、吐き出す前に、唇を、塞がれた。
「余計なことはしないの。ほら、弐の、の次は」
「………参」
一瞬、忘れたはずの恐怖が胸をよぎり、手の力が抜けかけた。目を閉じると、再び唇を塞がれるのと同時に肩を抱き寄せられる感覚があった。自分の突き立てた短剣は確かに何かを突き刺していく。深く柔らかい何か。あたたかいものが、手を濡らしている。同時に、噛み付くような痛みが、胸をびりびりに破いた。
呼吸も浅く、どこになにがあるのかわからない。胸から滴る液体から香のような芳しい香りが立ち上っている。血ではないのかしら。疑問が頭を掠めたが、目を開ける勇気など露子にはなかった。
世界は、重心は、急速に傾いた。そうしてゆっくりと、ゆっくりと…
どんどん、意識が、沈んで、ゆく。

「終点ですよ、お姉さん」
その声に、飛び起きた。
露子の目の前にいたのは人の良さそうな中年のサラリーマンである。
どうやら、ずいぶん深く寝入っていたようだ。
「あ…ありがとうございます」
ぼんやりしたまま礼を言い、終点と言われた駅に降りた。よく見知った駅とそのホームに、ほっと息をつく。次の電車までまだ間があったので、化粧室に立ち寄った。
あれは夢だったの?
ぐるぐると、露子は考え込んだ。鳥居やお囃子の音、そしてあの謎の青年…。しかし確かに、握った手の感覚や唇の感覚は、ありありと思い出せる。そのあとのふりかかった液体の温度や感触もはっきりと覚えている。何かを握るときに思い出して震えてしまうほど、はっきりと。
手洗い場で、鏡に映った自分と目があった。その首元に、目線を惹きつける赤がある。
そっと触れると、それは丸い赤い玉が連なったネックレスだった。その位置に露子には覚えがあった。あの青年に剣で首元をなぞられた際に血が浮かんだところだ。
「血赤珊瑚…」
まもなく、次の電車の時刻となった。露子は小走りにホームへ続く階段を駆け下りていく。
聴き馴染んだ発車のベルが鳴り出した。

近況まとめ。

特筆するような出来事も起こらないまま、粛々と週に一度の用事をこなしてある程度人間らしく日々を過ごしていた。新しいアルバイトを始め、余暇というものを抹消する結果となったが、将来につながるアルバイトができているというだけでもしあわせに思うべきだろう。いつものように気軽に一人で見たい映画を見に行って、気が向いた友達とペルシャ料理に興じ、たまに誘われた展覧会を見に行ったり、忙しいなりに時間を作って趣味の充実に努めていた。そんな日々に変化が起きたのは、今から3週間前のことだった。

古くからの友人の誕生日を祝った帰り、中学の同級生から映画のお誘いが入った。その同級生は、中学の頃の部活が同じだった男の子で、私は彼に対して少なからず好意的だったので二つ返事で快諾した。それがことの始まりだった。最近人気のディズニー映画。わたしは見るのが二回目で、一回目は吹き替えで見たから、今回は字幕で見たいと厚かましくもわがままを言ったら、彼はそれを聞き入れてくれた。一回目には見られなかった細かい伏線やキャラの動きを楽しんだ。ディズニー特有の粋なハッピーエンドで気持ちがきらきらっとしたとき、わたしはおもわずとなりの彼を見上げて何か言おうとした。彼はわたしの声が聞こえなかったみたいで、「ん?」と聞き返しながら、わたしのシートぐっと半身を入れてきて、あろうことか無防備に膝に置いていたわたしの手に、強引そのものという力強さでもって指を絡めてきたのだ。

そんなことがあったから、その後の帰り道だって平常心で居られるはずもなく、新宿のどぎついネオンライトにうっかり間違いを犯しそうになりながら、わたしたちは手を繋いだまま帰った。今思えば、まるで片足を預けてしまったみたいに、わたしはその片方の手に依存していたのかもしれない。翌日、握るものがない留守の右手を、どうしていいかわからなくなるくらいには。

なぜか1週間後に会う約束をして、その日は別れた。まるで付き合っているカップルのようなことをしたのに、そのときわたしは彼女じゃなかった。そのまま、心地いいだけの、ただ甘やかされる女友達という地位も悪くないし、今日限りのガールフレンドだったとしても、今日が楽しかったことは確かだから、もうわたしは充分だと思っていた。

そしてその1週間後に、近所の公園で話しているときに付き合ってくださいと言われ、わたしは映画の誘いの返事をしたときのように、ごく簡単に快諾した。

ぽやっとしていた。自分でも思う。浮かれていた。でも、それでもいいやと思って、大きな手を握り返したら、やっぱり浮かれちゃうなっていうくらい幸せな気持ちが、ちょっときついアルコールみたいに身体の芯を熱くした。

今までわたしは、自分は人間だという意識で、人と交流してきたつもりだ。その交流の中でわたしは、男でも女でもなかったし、誰かのことも、男とも女とも思っていなかった。あくまで一個人として、その人を見てきたつもりだ。だけれどその日そのときの彼は紛れもなく男性で、わたしは紛れもなく、女の子だった。 

それ以降わたしは信じられないくらい可愛がられているし、大切にされている。と感じる。それも、美術品のようにガラスケースに入れて眺めるというよりは、小動物を甲斐甲斐しく世話をするように撫でて愛でてくれるのだ。わたしはこのような交際ははじめてだと伝えると、ゆっくりで大丈夫、君のペースに合わせるよ、と言ってくれた。

そんなふうにされたから、わたしは、思いつく限りの努力をしてもっと素敵な女の子になりたいと思った。心身共に放したくなくなるような、愛で尽くせないような、そんな女の子に。ああそうか、恋が女の子を変えるとはこういうことか。

少し惚気ておくと、わたしは彼がちょっと強引にことを進めようとするのが大好きだ。というのは、うまいこと恋人らしいリードをしてくれる、ということだ。付き合ってる仲じゃないとできないようなことを適切なタイミングで過不足なくやってのけてくれるし、どう甘えていいかわからないわたしに、ある程度の隙を見せてくれる。ほら、ここから入ってくればいいんだよ、というように。それで、ちょっと勇気を出してやってみると、倍返し以上で返ってくるものがある。嬉しいな、と思う。すごいな、と思う。わたしでいいのかな、と思う。ありがとう、と思う。

彼は、わたしがどうしても大好きで大好きで付き合いたくて仕方なかった男の子、というわけではない。声をかけられて振り向いたらそこにいた、くらいの存在だった。だからどこまで、いつまで付き合えるか不安だったのだが、日に日に、大丈夫だろうという根拠のない安心が増えていく。彼の言葉と、ハグと、キスとその他もろもろによって、確かに保証されていく感覚がある。

以上が、繰り返しだけの毎日に起こった特筆すべき最大にして最高の出来事である。

ちょっと京都に行ってみた

 

一人旅というのに、昔から憧れていた。小学生の頃に「黒ねこサンゴロウ」シリーズの「旅のはじまり」という本を読んでからだったと思う。一人でちょっとどきどきしながら電車に乗って、全然知らないところにぽおんと放り出されて、初めて会う人、初めて見るものばっかりで、そういうのに囲まれるのって、なんだかとてもすてきだ、とか、ぼんやり思っていた。

最初は半分妄想で、本当に行けると思っていなかった。もし行ったら、もし本当に私がそこに居たら。そういう妄想から始まった旅だった。私の計画はいつもそうで、だから頓挫することもかつては多かったのだけれど、最近はうまく現実と折り合いをつけられるようになってきたので、時間とお金さえあれば実現までこじつけることができるようになってきた。うれしいことだ。今後も生きたいように、どんどん生きていこうと思う。

 

 

青春18きっぷを利用していったので、約八時間電車に揺られてやっと京都に到着したときは、ちょっと感動した。道があれば、人間はどこにでも行けてしまうのだ。「道に立ったらしっかり立っていなくてはね。道はあなたをどこにでも連れていってしまうんだ」。そんなトールキンの言葉(指輪物語)を思い出した。

 

一日目は嵐山。京都駅から嵯峨野線嵯峨嵐山まで行く。

嵐山での目的は、竹林の小道と野宮神社、それからオンラインゲーム刀剣乱舞のコラボドリンクをいただくこと。世界一可愛い推しのため、はるばる東国からやってきましたとも。着いてすぐRANDENバルによって桜クッキーとともにいただきました。

野宮神社は、今では縁結びの神社として知られているようで、着飾った和装の女の子たちでごった返していた。私がそこの神様なら、ちょっとうんざりしてカップルの一つや二つ破局に追い込むかもしれない。この野宮神社源氏物語の舞台となった場所の一つ。女の子が「斎院(たしか賀茂神社の巫女の長的なひと?)」になる前に一年間ほど滞在して身を清める場所だった。ここが舞台になるお話は、源氏物語「賢木」の帖。

いっけな~い、殺意殺意!あたし、六条御息所!娘が斎院に選ばれたから、その付き添いとして野宮神社にやってきたの。娘の付き添い?…嘘嘘。ほんとは、これ以上、光源氏のそばに居るのがつらかったから…。そんな複雑な思いを抱えてこの神社に籠っていたのに、なんとある日その光源氏が神社に押しかけてきて…?!しかもここは男子禁制の神聖な地!こんなとこで元カレが言い寄ってくるなんて、もう、わたしほんとにどうしたらいいの?次回「禁断の☆ワンナイトパッションラブ」!おたのしみにねっ。

と。そういう話。冒頭部分は借りものですが、六条御息所は殺意という言葉がわりとしっくりくるキャラですね。

そんなふざけた紹介したけど、切ない話もあって。

斎院って帝が変わるたびに交代するのだが、もし帝が長生きしたら、斎院もずーっと神様にお仕えし続けなくてはならない。やっと任期が終わったかと思ったらもう三十路になってて、とても恋愛なんてできたもんじゃない。うら若き乙女な時代に、恋を一つも知らないで大人になって、あとは枯れていくだけなんて、本当にやりきれなかったと思う。そんな風な嘆きもきっとあっただろうな。そういうことの始まりの場所だったんだろうな。

竹林を通って天竜寺に。特に入る予定はなかったのだけど、なんとなく。花の名前を、一つ覚えました。「木瓜」読み方は、「ボケ」。こんな名前なのに、真っ赤で、かたちがきれいな花。全体的にちょっとくたびれた雰囲気がして、私は好き。嵐山を借景に取り入れた大きな庭の大きな池には、たくさんの錦鯉が泳いでいた。

私借景って大好き。西洋の庭はとことん箱庭という感じだけど、日本のほとんどの庭は山をバックにしていて開放感があって、ちょっとしたお庭を持ってるだけなのにまるで山まで全部ひとり占めしているみたいな気持ちになる。うまいこと考えたもんだ。

 

少し早いけれど、嵐山での用事は済んだので一日目の宿に行くことにした、嵐電でちょっと行ったところにある、「鹿王院」というところ。そう、寺。

部屋に通されるまで、わたしは知らなかった。その宿が相部屋で、見ず知らずの人と一夜を過ごすことになるなんて。

だってびっくりだ。長い旅だったなあ疲れたなあ、やっと一人で横になれる…って思って障子開けたら、おばあちゃんが正座してお茶飲んでるんだ。ちょっと待ってよどういうことなの、しかもめちゃくちゃ寒いし。

「あと一人、だれがくるんでしょうね」

あとひとりだと、まだくるのか。このようだと期待はできないぞ、いったい誰が来るんだ。

一日目にしてインパクトがでかい。しかもこの人、話せば話すほど思想が偏っていることがありありとうかがえる。政治や宗教のことを語りだして、挙句「私が作ったこの世ですから」などと言い始めた。ちょっと待ってくれ、中二病こじらせすぎじゃないか。と冷静に突っ込みをいれつつ、それでも半分信じたようなふりをしているうちに、だんだんこの人が怖くなって、わたしはまだ見ぬ三人目の入室者に救いを求めた。

三人目の入室者は、例の偏った思想の同室者がお風呂に入っているときにやってきた。彼女はわたしと歳が近い人で、しかもスマホが三日月宗近でコーティングされていたため、ああこれは、と思って話を振ってみると、瞬く間に表情がきらきらしだして、あっというまに仲良くなった。その人は、しかも、私が願っていた通りのまさに救世主で、精神科医のナースだったのだ。私が、ただいま入浴中の恐怖の同室者について話すと、ナースは本当にナースらしい口調で「統合失調症だと思われますね」といった。やたら宗教めいた話にすっかりおびえていた私は、それにいくらか元気づけられた。

 

翌日は七時ごろからお勤めがあるらしい。寺に泊まる醍醐味はこれだ、参加しない手はないだろう。十一時頃まであかいち推しの精神科医審神者と語らって、それから重たい布団にくるまって、眠った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かさぶた

保健の教科書に、「精神が落ち込んだ時は、今のその感情ありのままを書き出してみると落ち着く」という記述があったので、かつてそうしてみたことがあった。しかしその結果、私の心は静まることはなく、さらなる絶望と怒りを生んだだけに過ぎなかった。自分がこうもつらいことを、私はきれいな文章で語ろうとする癖がある、大げさにしたがる癖がある。自覚していることを、さらに助長して書いてしまうことがある。

どうせ読むのは私一人なのに。

そんなことだから、私がルーズリーフに書きなぐった気持ちは、私の感情のはしっこまでかき上げられる前に、丸めて屑籠に捨てられることになった。後には苦い気持ちだけが残った。重苦しくて、どうにも立ち直れそうにないと思うほど。

あれから何年か過ぎて、私は今同じことをしようとしている。ここに全部、書き出そうとしている。状況の説明は一切しないで、ただそう思っているということがわかれば良しとしよう。それだけで、一歩踏み出すどころではなく、立ち幅跳びをしたくらいには大きく前進したことになるから。

 

初めて会ったのは夏で、初めて話したのも夏だった。美しく着飾った日に、あなたを独占できたというのは、どう考えても、神様のおかげとしか思えない。きらきら言葉が輝いて、あなたの語ること全部、好きだと思った。その話し方も語ることも今までにないくらい驚きに満ちていて、私はようやく、私を癒してくれる泉のような人に出会えたと思った。何もかもの始まりにありがちな、強い「興味関心」。それが一気に芽吹いて花を咲かすころ、それがちょうど夏だった。

一緒にいるとき、いつもわくわくした。なんでも楽しかった幼い頃の自分に戻ったみたいに、なんでも新鮮だった。柔らかくて、少しも曇りがない声をずっと聞いていたいと思った。ドキドキする瞬間や、心臓がきゅうっとするような瞬間は一つもなかったけれど、びっくりするようなひらめき、思わず笑いだしてしまう彼なりの持論。今まであった人の誰よりもちょうどいい温度や間合いが、心地よかった。大好きだった。ちょうどいい木陰をやっと見つけた小鳥みたいに、私はそこで休んで居たかっただけだった。

 

あんなにたくさんのこと、あんなに長い時間話したんだから、当然、私はあなたのそばに居られると思いこんでいた。物理的じゃなくていい、心や、精神が、あなたとわかりあっていれば、それでいい。それでよかったの。

 

馬鹿みたい。

 

何をうぬぼれていたんだろう、何を安心していたんだろう。

そんなきれいごと言って、必死になって隣にいたがったのはどうしてだろう。

余裕がないくらい、きっと、周りなんて全然見えていなかった。

かっこ悪いくらい、君がほしくて仕方なかった。

いつからそんな汚い独占欲に変わったんだろう。

私には全然わからないけど、気付いたらそうなっていた。

 

ばかみたい。

 

今まで、誰かを好きになるなんて、心が弱い人がすることだと思っていた。わたしは今まで、自分が一番好きだったから。自分のしていることが、一番心地よかったから。それに、恋をしていない人は誰だって、凛としていてかっこよかった。だから私は、誰も好きになりたくなかった。過去に一度、人を好きになって、ひどくひどく泣いたことがあるから、というのも、その一因。あんなにつらくてかっこ悪いこと、もう二度とするものかと思う。いまでも。

 

そういう意地とは裏腹に、気持ちは加速していく。

というか、だらしなく肥大していくといったほうが適切かもしれない。

 

このまま。

 

このままこの気持ちを一つも知られないで過ごすには、なんだかやりきれない気持ちもするが、それが一番得策かもしれない。そうできたら、どんなにいいだろうと思う。

そっと好きでいて、縁が切れたら、そっといなくなる。

「きっと、きっと。」

言い訳がましい私は言う。

「彼ってとてもすてきだから。私なんかじゃ務まらない。私よりもっと、かわいくてすてきな女の子じゃないと、彼女なんて務まらない。」

だからこのまま、見ているだけ。

気が向いたときだけ、相手をしてくれればそれでいい。

でも、このままでいられる可能性は、相当低いだろうなと、憎らしいくらい客観的にそう思っている自分がいる。

 

とにもかくにも、わたしの身勝手な行動で、大好きな人を失いかけていることは明白だった。これで二回目。私はまた同じようなことで、大好きな人との関係を危うくしてしまうんだろうか。またあのやりきれない気持ちが襲ってくる?こんどこそ私はきっと立ち直れない。あっけなくその波にのまれて、死んでしまうに違いない。

 

怖い、怖いな。

 

せっかく好きになったのに、君のことも、みんなのことも、人間全部、好きになれたのに、やっとそうなれたのに。

 

私はまた、全人類を嫌いになっていしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川越探索 蔵造りの街並み編

 

 

 川越へ行こう。

 冬休みも終盤に差し掛かり、ふとそう思い立った。かねてより噂には聞いていて、ずっと行きたいと思っていた町だ。私の家(神奈川県)から川越までは電車で二時間ほどかかるが、東京まで出られる定期券を持っていると、不思議とどこへでも行けるような気になってくるものだ。特権ともいうべきこの定期券を、学生であるうちに使わない手はないのである。

 川越本丸御殿、蔵造の街並み、時の鐘、いくつかの神社…。「川越 観光」で検索をかけるとそういったものはすぐに出てきた。着いたらまずはどこへ行こうか…。想像を膨らませながら電車に揺られ、そうして私は川越駅に降り立った。

 

 てっきり、駅を出たらすぐに蔵造の街並みが見えると思い込んでいた私は、川越駅東口にある大きなショッピングモールを目の当たりにし、拍子抜けした。地図を確認すると、どうやらクレアモールという商店街を抜けてからやっとあの古い町並みにご対面できる、というわけらしい。

 というわけで、クレアモールを歩くと、そこは都内の雰囲気と何ら変わりはなかった。ゲームセンターや複合商業施設が立ち並び、ところどころに川越の名産品を名乗る土産物屋が挟まっている。風流な琴の音をBGMにしている和菓子屋の反対側には、容赦なくゲームの音を鳴らすゲームセンターがあり、何とも言えない気持ちになる。

 クレアモールを抜けると、「大正浪漫夢通り」に差し掛かる。ここには蔵造の街並よりもいくらか西洋風の建物が並んでいた。石で作られた屋根を持ち、レトロなカタカナの看板を掲げた珈琲店など、ハイカラな店がいくつかあったが、シャッターが閉まっている店も多い。道に掲げられた正月祝いの飾り物が、寂し気に揺れていた。

 浪漫通りの突き当りを左に曲がって少し行くとまめ屋があるのだが、そこから右を見ると、その町並みは突然姿を現す。多くの車が行き交っていることを除けば、そこは江戸後期から明治あたりの街並みそのものだった。

 この手の街並みは、鎌倉の小町通りや浅草の仲見世通りのように、規模が小さく道幅も狭いうえに人通りが激しく歩きづらい…。それくらいには覚悟していたのだが、案外規模は広く、車が通るということもあって道幅は広かった。

 目についた気になる店を片っ端から物色していくと、思いがけない出会いがある。今までは点で興味がなかった和柄の風呂敷やてぬぐいが急にかわいく見え始め、別に川越の名産品というわけではないのだろうが、ついつい手が伸びてしまう。これは何という柄だろう、なんという色なのだろう…。様々、気になるところはあるが、紺地に赤い花が散った風呂敷を買って満足した。可愛ければいいのである。要はミーハーなのだ。

 それから、その店の店頭にかかっていた狐のお面がすっかり気に入ってしまって、かねてよりほしいと思っていたものだったからすぐに買うことを決めた。最初の一歩を踏み出してしまえば、あとはもうなるようになれである。さっきまでリュックにしまっていた財布をわきに抱えて歩きながら、漬物屋や玉屋の前をゆっくり歩いていく。最近漬物に興味があったが、いくつか試食してみてもこれといったものに出会えず、購入はあきらめた。

 

 そういえば、パンフレットによると、そろそろ時の鐘が鳴る時刻らしい。

 現在時の鐘は耐震工事中で決して風情があるとは言えない見た目をしていたが、ごおんという重たい鐘の響きは、確かに風流だった。一つ鳴ってから、また撞木を引いて鐘を打つまでの余韻が長く、せかせかした気持ちを「まあまあ…」となだめられるようだ。鐘の下の茶屋の川越茶を飲みながら、一息ついて、この町に来てよかったとしみじみ思った。

 現在蔵造の街並みが残る川越一帯は、明治26年の大火で焼け野原となってしまったのだが、それをきっかけに、人々は耐火性のある蔵造りの家屋を立てるようになったのだという。もともと江戸での商業を生業とする商人が多く住んでいたため、財力のある人間が多かったということもあって、蔵造りの建物を中心とした復興が進んでいった、ということらしい。

 …と、そう語ってくれたのは、川越市蔵造り資料館のおばあさん。やわらかく、流れるような語り口に、つい漫画かアニメのワンシーンに入り込んでしまったような錯覚に陥る。オルゴール調のシリアスなBGMが流れて、建物から出ると、そこは本当に明治時代の川越だった…!というような安い展開を期待したくなった。

 資料館では、当時の蔵造りの様子を中に入って見学することができる。

 どうやらこの倉は煙草の店をしていた人の蔵のようだ。当時の火消用の道具や品物を売り歩くための荷車なども展示されている。荷車は、取っ手のところの塗料が完全にはがれていて、使い込まれた木に特有の滑らかさがあった。およそ百年前にこれを握りしめて町を練り歩いていた人のことに思いを巡らせながら、建物の二階に上がると、天井が低い四角い部屋があった。特に面白いものはこれと言ってなかったのだが、畳がやわらかく、古くなっているようだったので、意味もなく座り込んだり、窓の外を眺めたりした。もしかしたら、昔ここに住んでいた人も、こんなことをしたのではないかな、と思いながら。

 

 資料館を出ても、まだまだ興味深い店は軒を連ねていて、私は後ろ髪をひかれる思いでそのあたりを足早に歩き去った。これ以上ここに長居していては、川越本丸御殿を訪れる時間が無くなってしまうからだ。冬の三時過ぎの薄暗さが一層私を急き立てる。「札の辻」とか「郭町」とかいう名前の交差点を通り過ぎて、川越本丸御殿へと向かった。

 

 

 

 

MOCHA(3)

うしろから、混乱して立ち尽くすわたしを呼ぶ声がした。

「モカ…。モカだよね?」

おじいさんより若い声。振り向くと、そこにはアルバイトの男の子がびっくりした顔で突っ立っていた。

「まさかほんとに…戻ってくるなんて」

戻ってくるに決まっているでしょう。帰巣本能って、知ってる?

そんなことより、おじいさんはどこに行ったの。ここでないとすれば、どこにいるの?

「頼まれていたんだ。マスターに。モカを見かけたら、拾って育ててほしいって…」

男の子のひょいと抱き上げられたわたしは、そのまま彼の胸の中にすっぽりと納まった。家のにおいがする。どこか遠くの、暖かい巣の匂い守られていて、穏やかで、ついうとうとっとしてしまうような、巣の匂い。そんな、夢の匂いがする。

「マスターの店、継ぐことになってね。店は東口に移転することにしたんだ。モカもおいでよ。全席禁煙にしたから、もうあんなひどい死に方をすることもないよ…」

確かに、彼の服からはかすかにコーヒーの匂いがした。

…ひどい死に方ってなに?

わたし、幸せだったわよ。生きているうちの一番美しい姿だけ愛でてもらえて。

それにわたし、煙草の匂いが混ざっていないと、喫茶店という感じがしないの。

 

わたしは彼の腕の中で、夢中で体をよじって、こぼれるようにそこから逃げ出した。

彼は地面に降りた私を見下ろして笑った。駄々っ子に呆れたような目だった。

「しょうがないなあ、こっちだよ!」

男の子は速足で歩いていく。わたしは彼にぴったりくっついて歩いた。

 

連れていかれた先は、大きな病院だった。彼はだまって私を抱き上げると、トレーナーの中にわたしを詰め込んだ。耳が折れて、ひどい格好に尻尾が折れ曲がって、本当に不快で思わずうなるほどだった。けど、仕方ないことは猫のわたしにもよくわかったから、毛も逆立てず、出さず、耐えに耐えて、耐え抜いた。

彼が急いでくれているのは、彼の歩くリズムで分かった。

「マスター」

彼が立ち止まって、そう言ったのが聞こえた。

「連れてきました。どうしても、来たいと言ってるので」

答える声はなかった。

トレーナーから出されたわたしは、ぱちぱちっと瞬きして、あたりを見回した。つんと鼻に来る薬品の匂いと、ゆっくりと一定のリズムを刻む電子音が聞こえた。シーツもカーテンも真っ白で…その真っ白の中に、おじいさんがいた。目を閉じて、横たわっていた。口がマスクで覆われていて、苦しそう。これじゃあ、コーヒーも飲めないし、煙草だって吸えない。わたしとおじいさんの、一番幸せだった時間はすっかり消え去って、そしてもう戻ってこないのだ。

 

わたしは体を伸ばして、おじいさんの膝のあたりに降りた。

アルバイトの男の子は、何も言わず、それをみていた。本当は猫がここに来てはいけないことくらいわかっているはずなのに。

おじいさん、わたし、あなたのことなにもしらない、名前だって知らないけど、とても好きだった。大好きだった。

わたしもすぐに死ぬね。うん、だって何度も死んでいるんだもの、今回だけ長く生きてあなたを待たせるようなことはきっとしない。

 

わたしはいつもしていたようにおじいさんの膝の上に丸くなって目を閉じた。

「モカ…」

かすれた声で名前が呼ばれた気がした。

夢だったのかもしれない。

わたしは顔を上げておじいさんの顔をじっと見つめた。そうしたら、おじいさんはしわがいっぱいたたまれた顔をほころばせて、わたしを見つめ返していた。

「モカだ…」

ずしん、と背中に重みがあった。

おじいさんの手。かつては毛布よりもあたたかかったその手は、今日は冷たかった。鉛のような、灰色のような重さと冷たさだ。

でも、ぱちりと見つめ合った視線の、なんとあったかいことだろう。

 

「くたびれた人生の匂いがするね」

 

湿った風がカーテンをゆらすと、それまで控えめになっていたバラード調の電子音が、オルゴールが演奏をやめるときのようにそっと鳴りやんだ。

   

                           おわり